最近は古い戯曲をよく読んでいる。「古い」といっても大抵は明治〜昭和中期にかけてのものであるが、こういった古い戯曲を読むにあたり、いくかの段階での難しさがあると感じている。この難しさに阻まれて、古い戯曲を読めないという人もいるだろう。
しかし、その難しさを超えれば実りが多いことも事実である。現代の作品を読んだり見たりするだけでは看取できない面白いストーリーや表現、構成などが見つかるかもしれない。あるいは、戯曲・シナリオに対する通時的な理解が深まることで、何か新しい発想ができるようになるかもしれない。また、その当時に暮らしていた人々の風俗について知る手がかりにもなるだろう。
こうした古い戯曲の中には、青空文庫や戯曲デジタルアーカイブなどで無料公開されているものもたくさんある。そうした作品を難なく読めるようになれば、読書生活がきっと豊かなものになることだろう。
そこで、古い戯曲を読むにあたって一体どこに「難しさ」があるのか、そのことについて考えていきたい。
すらすら読むのが難しい
古い戯曲を読むにあたって最初にあたる壁は、すらすら読むことすら難しい、ということだろう。たとえば、以下は岡本綺堂「番町皿屋敷」の冒頭である。
娘 お茶一つおあがりなされませ。
長吉 桜も今が丁度盛りだね。
娘 こゝ四五日のところが見頃でござります。それに当年はいつもよりも取分けて見事に咲きました。
長吉 山王の桜といへば、おれたちが生れねえ先からの名物だ。山の手で桜と云やあ先づこゝが一番だらうな。
仁助 それだから俺達もわざ/\下町から登つて来たのだ。それで無けりやああんまり用のねえところだ。
皆さんは、この文章をすらすら読めるだろうか? 僕はといえば、「すらすら」読めるとまではいかない。やはり、少しつっかえながら読む感覚がある。しかし、たとえば英語の文章を読んだり、あるいは平安期に書かれた文章を読むのに比べれば、まだぜんぜん日本語として読める。現代の小説や戯曲を読むのに比べればスピードは落ちるかもしれないが、しかしゆっくり読めば何とか分かる。
しかし、こういった近代の文章に読み慣れていない場合は、そもそも「音読する」ということが難しい。
たとえば上の例でいえば、全体的に旧仮名遣いで書かれているので、それを元に戻して読むのが難しい。これは、旧仮名遣いで書かれた戯曲を何度も読んでいれば、「なるほど、パターンが見えてきたよ〜」という感じで難なく読めるようになるものだが、そういった経験が内面化されていないと、声に出して読むことが難しい。
また、日常生活ではあまり使わない単語が出てくると、その読みに困ったりする。上記の例文でいえば、たとえば「当年」などは読み方が怪しい人もいるのでないだろうか。「山王」も、人によっては難しいかもしれない。
書かれていることの意味を理解するのが難しい
旧仮名遣いや漢字の読みに慣れていった先に、今度は書かれていることの意味を理解するのが難しい、という問題がある。たとえば古文で習うような平安期の文章などは、日本語として発音はできるものの、一つひとつの単語が何を表しているのか分からず、当然の帰結として文章全体の意味がまるで分からない、という場合も往々ににしてあるだろう。
明治〜昭和期の文章は、平安期の文章よりも現代日本語に近いとはいえ、普段の我々が目にしない・耳にしないような言い回しが出てくる。そういったことばの意味が取れないと、何が書かれているかどんどん分からなくなってしまう。
先に引いた文章でいうと、たとえば「おれたちがうまれねえ先からの名物だ」は引っかかる人もいるかもしれない。現代日本語であれば、時間軸において「先」といえば、通常は「未来」のことを指す。したがって、「うまれねえ先から」というのが、「生まれる前から」という意味にちゃんと取れるかどうかは、その人がどのような言語生活を送ってきたかに依存する。
このように、日常会話や普段の読書の中で出会わないような表現があり、それが理解を妨げる。
その時代の風俗がわからない
旧仮名遣いもちゃんと読める、書かれていることの意味も分かってきた、となっても、今度はその時代の風俗や文化がわからず、理解に苦しむという場合もあるだろう。
僕は海外の小説を読むのがかなり苦手なのだが、その理由の一つがここにある。登場人物たちが手に取るものの一つひとつが、どのようなものなのか想像できないのだ。また、地名などを出されても頭の中に情報が広がってこない。そういった難しさが、明治〜昭和期の戯曲を読む際にも現れてくる。
どうすれば良いのか?
ここまで説明したように、古い戯曲を読むことには、大きく分けて3段階の難しさがあるように思う。しかし、古い戯曲を読めば新しい世界への扉が開く。できれば読みたい。では、一体どうすれば良いだろうか?
まずシンプルな解決法としては、「慣れる」というのがある。特に旧仮名遣いに関しては、何度も読んでいればパターンが見えてくるので、案外する慣れるものだ。また、意味が分からない単語や表現については、その場で辞書やGoogle検索をして調べるのがおすすめだ。次にその言葉に出会ってもまた意味が分からないかもしれないが、まあだいたい3〜4回くらい出会えば覚えられるようになるはずだ。風俗や文化についても、同じようなシーンが何度も出てくれば、「まあそんなもんかな」と納得して読み進められるようになる。
しかし、これを一人でやるのは結構しんどい。そこで、戯曲を何人かで読み進めるのもおすすめだ。僕は最近、戯曲を読むリーディングワークショップというものに参加している。そこでは一応ファシリテーターという役割を担っているので、その日に読む戯曲を選定し、できるだけその作品の成立の背景や作家の生い立ちなども調べるようにしている。また、自分が読んで躓いた表現などがあれば、辞書を引いたりもする。
この作業を通していくうちに、僕はだんだんと戯曲を読むスピードが速くなってきた。おそらくそれは、この時代の表現のノリがなんとなく分かったからなのだろう。もっとも、僕は文学部文学科で日本近代文学を専攻していたはずなので、もっと早くこのノリに慣れなければならなかったのでは……と思ったりもするけど。
しかし一方で、僕がまだまだこういった古い戯曲に難しさを感じているからこそ、参加者の方がどこに躓きそうかが何となく分かる、というメリットもある。だから、自分で難しさを感じたところについては、厚めに解説ができるように準備したりもしている。
というわけで、古い戯曲を読んでみたいと思っている方は、できれば複数人で読んだり、先に読んできてそれを解説してくれる人を見つけたりするのがおすすめだ。もっとも、それができれば苦労しないよという話ではあるんですけどね。
なお、僕がファシリテータを務めるリーディングショップは熊本市内で開催しているので、近郊にお住まいで興味があるという方は、ぜひご連絡ください。連絡先は下記のサイトに記載しています。
