アニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』における「キリン」の位相

2018年7月から9月にかけて放送されたアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を見た。

普段はあまりアニメを見ないのだが、知り合い3人ほどに同時に勧められたので、これは何かあるに違いないと思い、dアニメで一気に鑑賞した。そして結果として、これが大変面白かった。おそらく知人たちは、僕が『魔法少女まどか☆マギカ』や『輪るピングドラム』が好きだと常々言っていたのを聞いて、おすすめしてくれたのだろう。

もし上記の作品が好きで未視聴の方がいれば、自信を持っておすすめできる作品である。思春期特有の微妙な心情と、9人の少女たちの闘いと成長が美しく描かれている。

さて、この素晴らしい作品の中で僕が特に気になったのが「キリン」の存在である。この喋るキリンは、主人公である愛城華恋を含む「舞台少女」たちの前に突然現れ、そして彼女たちの闘いを見守る。基本的にはごく普通の日常を送る彼女たちにとって、キリンと、そのキリンがいる空間はかなり異質のものであると言って良い。

では、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』において、キリンは一体どのような存在であるのか。本稿では、その位相を探ってみたいと思う。

なお、あらかじめ断っておきたいことが2点ある。

  1. 本稿では『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の核心に触れる部分について記述することもある。本作品を未視聴でネタバレされたくないという方は、この先を読むのはおすすめしない。
  2. 本稿で述べることはあくまで解釈の一つの可能性を示しているのであって、必ずしも僕がこの作品を本稿で述べるような意味だけで捉えているわけではない。

以上をご理解いただき、お読みいただけると幸いだ。

少女たちの闘いと成長

『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、ミュージカルが原作のメディアミックス作品である。本稿執筆時点では、舞台、アニメの他に漫画も刊行されている。また、スマホアプリでゲームが出る予定もあるようだ。

物語の舞台は、俳優や演劇づくりを志す人々が集まる聖翔音楽学園。物語上の描写を見ていると、恐らく高等学校かつ女子校であると思われる。

主な登場人物である9人は、その学園の中でも俳優を志す生徒たちが集まったA組に所属している。そして彼女たちは、度々自分たちのことを「舞台少女」と自称する。

そんな彼女たちは、不思議な喋るキリンの主催する「レヴュー」という、奇妙な闘いに巻き込まれていく。

だいたいこんなあらすじの物語となっている。この作品に主題があるとするならば、それは「少女たちの自己実現」に他ならないと思う。舞台に立って多くの人に見られ、そこで輝く、というのは、承認による自己実現の最上級に位置するものだ。彼女たちは、舞台上で輝くことを目指して、日々の生活の中では切磋琢磨して稽古を重ね、そしてキリンの主催する「放課後のレヴュー」では激しい闘いを繰り広げる。僕たちはその中で、舞台少女たちの様々な感情に触れ、そして彼女たちの思惑が上手くいったり、あるいは方向転換を余儀なくされたりする様を見届けることになる。

「戦場」のメタファーとしての「地下劇場」

この作品では、キリンと、そのキリンが居る地下空間はかなり異質な存在である。舞台少女たちは、多少アニメ的な演出はあるものの、概ね現実の物理法則や一般常識から外れない範囲で生活をしている。しかし、ひとたび地下空間に来れば、キリンは喋るし、少女たちは変身するし、物理的に攻撃しているはずなのに一切血は流れないし、誰も死なないし傷つかない。おおよそ一般の物理法則が通用しない、ファンタジックな世界が展開されている。

これは、アニメに特有の表現と言えるだろう。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』との類似点のある作品として、幾原邦彦監督のアニメ『少女革命ウテナ』がよく挙げられる。この作品について、評論家の宇野常寛は、『新世紀エヴァンゲリヲン』と比較しながら、「登場するすべての事物が登場人物の心情の比喩」であり、「そのことを露悪的に示そうとしていた『エヴァ』と違って、『ウテナ』ではそれがメタファーであることを隠そうとしない。マジックリアリズム的に作中ではなんの説明もなく不思議なことが起こるのだけど、それがメタファーにすぎないことが散々強調され」、それは「アニメの虚構性の高さを最大限に発揮して、思春期の自意識の問題を描く寓話にしている」と述べている。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』も、宇野が示しているような構造をとっていると言って良いだろう。舞台少女たちは、自意識の問題を解決するために「アタシ再生産」し、地下室で「放課後のレヴュー」という名の元にメタファー空間で闘う。

地下劇場は、舞台で輝く場所を奪い合う彼女たちにとってまさに「戦場」のメタファーである。

さて、ここで問題になるのは、「キリン」の位相である。これは、一体何のメタファーなのだろうか?

「キリン」と「観客」あるいは「男性」

まず改めて確認しておきたいのは、聖翔音楽学園はどうやら女子校らしいということである。

ここでは、少女たちのみが自己実現を目指し、徹底的に「男性」が排除されている。主人公の華恋が所属するA組の担任も女性だし、そもそもほとんどの場面は聖翔音楽学園内で展開される。たまに登場人物たちが外出する場合は男性も画面内に登場するが、背景として描かれているに過ぎない。

彼女たちと男性の関係性が最もはっきり示されるのは第5話で、華恋のルームメイト・露崎まひるが、実家から送られてきた荷物を開けるシーン。その荷物の中に、まひるが両親やきょうだいと写っている写真があり、そこで彼女の父親と弟を観測することができる。しかし、まひるが家族について語るエピソードはミュージカル好きな祖母にまつわるものばかりで、その他の家族にまつわる話は一切出てこない。それほど、この作品では「男性」は排除されている。

そんな物語の中で、唯一男性的な存在。それが「キリン」ではないだろうか。

先にも述べたように、このアニメは主要なキャラクターやすべて女性で、舞台版でもキャストを演じる女性たちが声優としてアテレコをしている。また、ほんのわずかしか登場しないA組の担任も女性声優がアテレコしているのだ。そんな女性ばかりの声優陣の中で、唯一の男性声優が、キリン役の津田健次郎だ。「キリン」の性別が明確になっているわけではないが、徹底的に男性が排除された物語の中で、唯一の男性声優の起用というだけで、キリンが「男性的」であると主張するのに十分ではないかと考える。

つまり、地下劇場が「戦場」のメタファーであったように、キリンが「男性」のメタファーだと言えないだろうか。

「支配者」あるいは「消費者」としてのキリン

さて、男性のメタファーであるキリンは、この物語でどのような役割を果たしているのか、改めて確認してみよう。

第7話で、第99回聖翔祭の再演を何度も願う大場ななは、キリンにこう問いかける。

ねえ どうして どうしてこんなことをしてくれるの

それに対して、キリンはこう答える。

舞台少女がトップスタァになる瞬間 奇跡ときらめきの融合が起こす化学反応 永遠の輝き 一瞬の燃焼 誰にも予測できない運命の舞台 私はそれが見たいのです

つまり、キリンは放課後のレヴューを観客として楽しむために開催しているのだ。

また、第12話で次のように言う。

なぜ私が見ているだけなのか分からない 分かります 舞台とは演じる者と見る者がそろって成り立つもの 演者が立ち 観客が望む限り続くのです

そして、ここでキリンは画面越しに僕たちに語りかけるようにこう続ける

そう あなたが彼女たちを見守り続けてきたように 私は途切れさせたくない 舞台を愛する観客にして 運命の舞台の主催者 舞台少女たちの永遠の一瞬 ほとばしるきらめき 私はそれが見たいのです そう あなたも一緒に 分かります

ここで言う「あなた」とは、もちろん我々視聴者の一人ひとりのことを指している。しかし、視聴者全員を指し示しているわけではない、と僕は考える。

ここで、舞台版の『少女☆歌劇 スタァライト』の様子を見てみよう。以下の動画を見ると、歌の途中で合いの手が入ることがわかる。そしてその声は、明らかに男性によるものである。この客席には、男性の方が圧倒的に多い。

このことから、アニメ版の『少女☆歌劇 スタァライト』も男性の視聴者が多いと予想される。キリンは、僕のような男性の視聴者に向けて「あなた」という二人称でメッセージを発しているのである。そしてそれは、僕たちを「共犯者」だと認定する呪文でもある。

「共犯者」とは、一体どういうことか。

この後、一度離れ離れになってしまった華恋とひかりは、思い出の東京タワーによって再び繋がる。そこで、キリンは以下のように言う。

飛び入りした舞台少女が約束の続きをはじめる 舞台少女による化学反応 予想もつかない舞台 ああ これこそ私が見たかった舞台 分かります

ここで、キリンの声色は明らかに興奮したものに変わる。それは、華恋とひかりの二人が、予想だにしなかった新しい世界を見せてくれたからだ。

華恋とひかりにとって、このシーンは、二人が子どもの頃から憧れていた二人できらめくことが叶いそうになるところである。しかし、キリンの感動は彼女たちの自己実現にあるのではない。ただ、彼女たちが新しい世界を見せてくれたことに興奮しているのだ。

キリンは、自分のことを「観客」かつ「主催者」であると述べる。そして、「観客」や「消費者」に、「主催者」は「支配者」に読み換えることが可能ではないだろうか。

この視点から、いくつかの事項を遡って検討してみよう。

少女たちは、このレヴューのことを口外しない。しかし、その理由はたかだか「罰金」という子ども騙しな理由だ。キリンが「きらめき」「スタァライト」などという言葉をちらつかせることで、彼女たちは怪しげな放課後のレヴューに巻き込まれていく。

彼女たちが、キリンからの支配と消費に100%無関心だったわけではない。学級委員長の純那は、第3話で、何やら本を積み上げて調べ物をしながら「何を調べていいのか…」と頭を抱える。

そこにある本のタイトルには「キリン」「UMA」「未確認生物」といった言葉が確認できることから、彼女が例の喋るキリンについて何か調べていることは間違いなし。ところが、純那もそれ以上キリンの正体を調べようとはせず、自己実現のために放課後のレヴューで盲目的に闘う。

そして、彼女たちは途中で騙されていたことに気づく。勝者以外は「きらめき」を失ってしまうということを、後になって知らされる。ここで僕は、古代ローマの円形闘技場で、犯罪者や奴隷たちが剣闘士として戦わされる様を想起した。社会的地位の高い者が、低い者を弄び、消費する構図。それが、キリンと舞台少女たちの関係である。

このような状況下で、先にも確認したように、「男性」のメタファーであり、「消費者」かつ「支配者」であるキリンは、12話の最終部付近で、画面のこちらを見て僕たちを「共犯者」にする呪文を唱える。「そう あなたが彼女たちを見守り続けてきたように」。

男性のものになる「少女」

そもそも、少女が主人公のアニメは、男性が消費者ではなかったはずだ。たとえば『美少女戦士セーラームーン』は少女漫画誌『なかよし』に原作漫画が連載されていた。また、『おジャ魔女どれみ』や『ふたりはプリキュア』も、いわゆるニチアサキッズタイムで戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズが男の向けであるところ、女の子向けのアニメとして放映されていたはずだ。

しかし、現在は「プリキュアおじさん」という言葉が出てくるほど中年男性がプリキュアシリーズを鑑賞し、『おジャ魔女どれみ』のような魔法少女が出てくる『魔法少女 まどか☆マギカ』も、その外伝的位置付けのスマホゲーム『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』がアイドルグループけやき坂46のメンバーによって舞台化されており、
少女主人公の物語が、だんだんと男性向けにコンテンツになってきている。

女性であれば、月野うさぎや春風どれみに、自己を投影しながら鑑賞することができただろう。しかし、男性が見る場合は、自己を投影するというより、どうしても客観的な見方になってしまう。それは別に色欲の対象とは限らず、たとえば羨望の眼差しで彼女たちを見めることもあるかもしれない。彼女たちの成長に心打たれるかもしれないが、いずれにせよ、少女たちの葛藤や自己実現は、男性として「消費」することになる。

その構造を、「キリン」というメタファーを用いて我々に差し出しているのが『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』である。

なぜ「キリン」なのか

ところ、でなぜ男性の象徴が「キリン」なのだろうか。

これまで論じてきた「キリン」=「男性」という仮説に沿うなら、一つには、体格が大きく、力強い動物であるという点が挙げられると思う。しかし、それならば象やカバ、ゴリラといった動物でも良いだろう。

その中で、キリンの特徴はやはり長い首だろう。もしかすると、これはキリン(=男性)が、常に少女たちを見下している、ということを表しているのかもしれない。

補足:その他のキリンの解釈について

僕が考えてみたかったことは以上である。

ここからは、さらにキリンが何であるかという思索をさらに深めるために、他の意見をいくつか検討してみたいと思う。読み飛ばしていただいても構わない。

「レヴュースタァライト キリン」で検索してみたところ、以下のような記事がヒットした。

『 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 』あのキリンは一体何なんだ? 感想コラム執筆ライターが考察してみた!

ここでは、キリンを演劇用語の「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」になぞらえて考察していた。

なぜキリンかについては、「全ての生物を見下ろす」 = 神 というような、僕の解釈と似たような捉え方もあれば、霊獣の麒麟からきているのではないかという見方もしていた。また、デウス・エクス・マキナはクレーンの仕組みを持った舞台機構だったことから、それとの関連性も考慮に入れているようだ。

あとは、少しだけ「男根のメタファー」なのではと考えた。ただ、であれば象を選んだ方が良いなと思ったし、この議論はほぼ生産性がないので特にどちらでも良い。

ちなみに、「男根のメタファー」が何なのかよく分からない方は、こちらをお読みいただけると良いかと思う。

男根のメタファー|ピクシブ百科事典

まとめ

ここまで、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』における「キリン」が何のメタファーであるかを検討し、それはすなわち「男性」=「消費者」=「支配者」ではないかとい考えてきた。

他の可能性をほとんど検討していないので、これが正しい解釈であるとは到底言えないが、一つの可能性を示すことができたのではないかと思う。もし本稿を読んで、何か思うところなどあればご意見いただけると幸いだ。

駆け足で12話観て、本稿を書くために重要なところをつまみ食いしながら改めて見たのだが、またじっくりと観てみたい作品だと思った。

【参考文献】
宇野常寛『若い読者のためのサブカルチャー講義録』 2018年 朝日新聞出版

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