『大怪獣のあとしまつ』の何にみんなは怒っているのか

『大怪獣のあとしまつ』という映画を見ました。映画上映前の広告でたびたび見かけていて、面白そうだから見てみたいなと思っていた作品です。

ところが、インターネットではかなり『大怪獣のあとしまつ』が酷評を受けているようですね。僕も正直言ってしまえば、期待通りの映画ではありませんでした。『大怪獣のあとしまつ』はどのように良くなかったのか。そこのところを少し考えてみたいと思います。

なお、ネタバレなどを気にせずに書いていきますので、また見ていないという方はご注意ください。

みんな何に怒っているのか

『大怪獣のあとしまつ』について、見た人たちは色々と悪いところを挙げていますが、みんな恐らく映画の結末に怒っているのではないかと思います。他にも悪いところはあるかもしれませんが、まあそれはおまけなので後述します。

物語の最後に、主人公である帯刀アラタは、大怪獣の死体の目の前でスマートフォンを取り出し、ヒーローの変身ポーズのような仕草をします。そしてアラタは光に包まれ、怪獣を宇宙の彼方へ連れていく。

これは何かのオマージュなのかもしれません。もちろん、おそらくこの変身シーンは明らかに「ウルトラマン」を意識していて、超人的な存在となったアラタが全てを解決したんだということは分かります。そしてこれは、ギリシャ演劇で物語を突然終わらせる手法を揶揄的に呼ぶ「デウス・エクス・マキナ」を意識していることは、作中でその語が出てくることからも明白でしょう。

そこまでは良いんです。意味は分かる。しかしこれの何が良くないかというと、「じゃあ今までの物語は何だったんだ」と馬鹿馬鹿しい気持ちになってしまうんですね。

『プロメア』という2019年に放映されたアニメ映画があり、この作品にも「デウス・エクス・マキナ」という呼称が使われます。この映画について僕は「面白かったなー」くらいの感想だったのですが、何気なくレビュー投稿サイトを見ていると、「最後にデウス・エクス・マキナとわざわざ言って物語を終わらせるのは、創作に対する冒涜であるし、観る側を完全に舐めている!」という趣旨の感想を見つけました。まあたしかに名前はそうかもしれないけれど、別にストーリーは意味のあるものだったし、たまたま名前が「デウス・エクス・マキナ」なだけでそんなに怒らなくても……と思ったものです。

しかし『大怪獣のあとしまつ』の「デウス・エクス・マキナ」は違います。名実共に観る側を完全に舐めている。

大怪獣の死骸を片付けるために、アラタをはじめ登場人物たちは様々に奮闘します。意見の食い違いや対立もあり、上手くいかないことはあるのですが、少なくとも、皆この状況を打破するために何とかしようとしている。そしてアラタは、最後の最後に命までかけている。作戦の失敗によって意識不明の重体になっている人もいれば、自業自得とはいえ全身がきのこだらけになっている人もいる。そういう犠牲や努力が何も生かされることなく、ヒーロが登場して最後の数十秒で宇宙へ死骸を連れ去ってしまう。

「最初からそうすれば良かったじゃん……」と思った方がおそらく僕以外にもたくさんいるのではないでしょうか。

もちろん、ここに何か批評的な意味を見出すことができるかもしれません。何をどんなに頑張っても、「デウス・エクス・マキナ」が全てを解決してしまうんだよ、というツッコミがここにあるのかもしれません。それは何に対するツッコミか? それは、既成の特撮映画に対するものかもしれません。しかしそういうものを読み取り始めるにしたって、やはりまず最初に出てくる感想は「最初からそうすればよかったじゃん……」で、何やら馬鹿馬鹿しい徒労感だけが残るのです。

ところで、なぜアラタは「最初からそう」しなかったのか。ノベライズ版を読んでみたら何か分かることがあるのではないかと思い、早速書いて読んでみました。すると、このような記述が。

選ばれし者なんかじゃない、ユキノの恋人だったころと同じ、ただの人間として、あがきたかったのだ。最後の最後まで、帯刀アラタとして、ユキノたちの生きる世界を救いたかった。

橘もも『大怪獣のあとしまつ』p194)

上記は、三人称視点から描かれたユキノの心の声です。

なるほど、アラタは「人間として、あがきた」いという意志があり、しかし最終手段としてどうしようもなく「選ばれし者」としての力を行使したと好意的に考えることもできるでしょう。

しかし考えてみれば、「選ばれし者」は怪獣をその超人的な力を用いて倒しています。それと同じようにして、あれこれ人間として努力する前に怪獣を宇宙へと連れ去ってしまえは良かったのでは? そうすれば、誰にも自分が「選ばれし者」だと気づかれることなく、そして誰も傷つくことなく物事を終えることができたでしょう。

そんなことしたら物語が始まらないじゃないか! という意見もあるかもしれません。そう、始まらないのです。この物語は始まりの部分から欠陥を抱えている。最終部に至るための動機が不明瞭すぎる。だから、繰り返すようですが、僕たちは馬鹿馬鹿しい徒労感と共にこの映画を見終える羽目になるのです。

「選ばれし者」の意味

そもそも、「この選ばれし者」という言葉もよく意味が分かりません。

「この選ばれし者」という単語について、天音正彦とユキノが言葉を交わすシーンがあります。以下、ノベライズ版からの引用です。

「アラタの埋まらない時間……あなたは何か知ってるの?」
正彦は、先ほどまでの苛立ちを消し、うってかわったように、凪のように穏やかな瞳でユキノを見つめた。
「選ばれし者」
「選ばれし者……?」
「きみも、噂くらいは聞いたことがあるだろう」
「それって……」
「いま、いえるのはそこまでだ」

(橘もも『大怪獣のあとしまつ』p150)

ノベライズ冒頭の記述を借りるのであれば、「怪獣と呼ばれる、人類を未曾有の恐怖に陥れた巨大生物が」死んだのであって、つまりこの世界では、これ以前に「怪獣」と呼ばれるような存在は出現していなかったと推測できます。もちろん、それに対する超人的な存在も出現する余地がない。ではそうした時に、「選ばれし者」が「噂」されるというのは一体どういう事態なのか……? ここで、「ヒーロー」という言葉が出てきたり、まだ「おとぎ話の〜」という説明がなされるのは分かります。ところがここでは「噂」の「選ばれし者」という表現が使われています。まだ世間に認知されていない存在が、一体どの空間でどのように「噂」になるというのでしょうか。

「選ばれし者」という言葉が使われていることに、何か僕の見落とした重大な理由があるのかもしれないと必死に探していて、だからこそノベライズ版まで読んだのですが、まだ見つかっていません。見つけた方がいれば教えてください。

ギャグの精度

本作の評価として、「ギャグが寒い」「ギャグがぜんぜん笑えない」というものが見られます。これには僕も同意します。しかし、やりたい方向性みたいなものはなんとなく分かるんです。というのも、僕は本作の脚本・監督を努めた三木聡が監督・脚本を務めた回の多い「時効警察」シリーズが大好きで、中学生〜高校生の頃にかけて何度も見返しました。僕の家にはテレビがないのですが、先日実家へ帰ったときにたまたま再放送されており、懐かしい気持ちで見ていたところです。

「時効警察」はギャグの手数がとにかく多く、緩急みたいなものがあまりありません。しかし、そのナンセンスなところが僕は好きでした。

さて話を『大怪獣のあとしまつ』に戻しましょう。本作には、「時効警察」に登場しているふせえり、岩松了がコミカルな役柄で出演しており、「時効警察」の主役であったオダギリジョーも、シリアスな役柄ではありますが重要な役として出てきます。三木聡監督の他の作品は他にまだ見たことがないので確信を持って言えないのですが、たぶんこういう方向性のことがやりたかったんだろうな、ということはぼんやりとわかるつもりです。しかしそれが、「大怪獣のあとしまつ」のストーリー構成に合っているのかというとまた別の話で……。

ただしこれは、僕が期待しているものと「大怪獣のあとしまつ」がマッチしていなかっただけで、なんというか期待値コントロールに失敗しているだけなのかなと思いました。失敗しているのが「大怪獣のあとしまつ」側なのか僕の側なのか、という問題は残りますが、一旦は僕のせいということにしましょう。僕はドタバタコメディ的なものを想像していたところがあって、『舞妓Haaaan!!!』や「カメラを止めるな!」的なテンポの良いものを期待していました。ところが、「大怪獣のあとしまつ」は何やらシリアスな部分もあり、山田涼介演じる帯刀アラタは最初から最後までコメディっぽい縁起がありません。内閣ばかりがずっとふざけてる。ふざけるなら全部ふざけていてほしかったな……というのが僕の希望でした。でもシリアス部分が面白いと思う方もいるかもしれないので、これは好みの問題かも。

さいごに

「大怪獣のあとしまつ」を人に勧められるかどうかについて、僕は相手によるかなと思いました。相手が年に1本程度しか映画を見ないような人であれば、他の映画を見たほうが良いよと言うんじゃないかなと思います。しかし、映画を年に何本も見る人であれば、「とりあえず見てみると面白いかもよ?」という態度になります。少なくとも、最近見たい映画の中で、これほどまでに長い感想を書きたくなった映画はありませんでした。読み返してみると、褒めていることがほとんどなくてなんだか面白くなってしまったのですが、それでも物語内容についてこれだけ考えされてくれるというのは稀有な作品ではないかと思います。

映画を見た後に「あそこがくだらなかった」とか「あそこが良くなかった」とか言語化して語り合うのも楽しみ方のひとつだと思っていて。それに照らしてみれば、僕は本作のノベライズまで買った上でこうして語っているので、それだけで価値のある映画だったのかなとは思います。もちろん、そんなことを言われてもまだ怒る気持ちが鎮まらない、という人の気持ちだって分からなくはないのですが……。

ところで、怪獣が宇宙に連れ去られたとしても、撒き散らされたきのこの胞子はまだ残っていて、これが大問題になるのでは? という疑問が残りました。次回作は別の怪獣のあとしまつではなくて、このきのこ問題を描いたドタバタコメディになると嬉しいのになあ。

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