自己治療的な文章に化粧を施す

最近フミコ・フミオさんの『神・文章術』を読み終えました。文章には自己治療的な側面があって、けれどそれをそのまま他人に見せるのは良くないよなあと思ったので、このことについて考えをまとめておきます。

自己治療的な文章

文章を書くことで自分を治療することができる、と以前どこかで読んだことがあります。出典を探しても見つからなかったので、本で読んだのかTwitterで読んだのか違うどこかで読んだのか定かではないのですが、「たしかにそうだなあ」と思ったことは覚えています。

『神・文章術』は、自己治療的な文章の書き方を説いた本だと思います。ここでは「書き捨て」という手法が用いれられており、とにかくゴミ箱に捨てる前提で今考えていることを紙に書いていく。捨てることが前提なんだから、恥ずかしがらずに何でも書ける。そして紙は捨てられるけれども、一度書いたことは自分の中で形になって残る。そういったことが繰り返し論じられます。

僕は貧乏性なので自分の書いた文章が捨てられず、押入れの中にはいつ使っていたのか分からないノートや手帳が大量に眠っているのですが、「思ったことを書く」のはずっと続けてきました。これらの文章を他人に見せることはなく、自分でもほぼ読み返さない前提で書いているので、だいたい「書き捨て」のようなことを実践してきたのだと思います。そうした経験から言うと、「書き捨て」は自分を治療するのに役立ってきたなと思います。

「治療」という言葉は比喩です。自分が何らかの良くない状態に陥っているときに、文章を書くことでそれを打開しようとする。その行為を「治療」と呼んでいます。以前に「とにかくメモすることで僕は新卒2年目を生き延びていた」という文章を書いたことがあるのですが、まさしく新卒2年目の僕は、メモをすることで僕自身を治療していたのだと思います。

自己治療に化粧を施す

そしてこの自己治療的な文章は、時に「書き捨て」るための文章ではなく、他人に見せるための文章に役立てることも可能です。

ある主題について書く必要があり、それに対して何も思い浮かばないとき、僕は「とりあえず書き始める」という作戦をとります。それは、メモ帳やiPadへ散発的にキーワードを書きつけることもあれば、テキストエディタを立ち上げて思いつくままに文章を書いていくこともあります。何も書けないという状況はひとまずこうして打開され、そして不思議なことに、自分が書いた文章を見ていると「なるほど、そういうことが言いたかったんだ」と、芋づる式に自分の中から文章が溢れ出てきます。この時点で僕は、ある程度の「治療」に成功したということができる。

ところが、ここでひとつ問題があります。この治療によってでき上がった文章は、あくまでも治療の痕跡でしかないということです。

僕は、他の人に読んでもらう文章を書く際には、『新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング』のテクニックに従っていることが多いです。これはもう無意識的なレベルであり、先日改めて読み返すと、「なるほど、自分で発明したと思った文章に関する方法の数々は、すべてここに書いてあったんだな」とびっくりしました。20代の前半で何度も読み、血肉になっている本です。

この本では、「書きながら考える」という方法は推奨されません。まず「何を書くか」が重要で、その次に「どういう順番」で書くかということを決めていく。この2つの工程が重要であり、その他のテクニックは些末なことでしかないのです。ここに自己治療のための文章はなく、ただ職人的に文章を書いていく方法論が書かれています。

この方法で書かれた文章は当然、最初から他人に読まれることを意識しています。どういう順番で情報を伝えていくかが最初から明確なのです。ところが自己治療目的で書いた文章はどうでしょう。自分が思いいついたことを頭から書いているだけなので、何が伝えたいのかよく分からないことが多いのではないかと思います。そもそも、冒頭の方では何を書きたいのか自分でも分かっていないため、それを他人に分かってもらおうという方が難しい。

繰り返しになりますが、文章には自己を治療する作用があります。もちろん、それをそのまま公開しても誰も何も文句は言いません。しかし、いわば自己治療の痕跡とも呼べるこの文章が他人にとって意義のあるものだと期待するのは難しいのではないでしょうか。文章に自己治療の力があるからといって、それを盾にしてその痕跡を他人に読んでもらうことを正当化してはならない。

自己治療的な文章に化粧を施すこと。レヴィ=ストロースは、まず草稿をざっと書いたあとに、それを何度も検証し、切っては貼り、加筆し、そうして原稿を仕上げていったと言います。そうすることで、自己治療で生み出された何かが、最初から最初まで筆者の意思が行き渡った文章になる。

僕は文章を書くことで救われた経験が何度もあります。しかし、文章を使って他の人を救いたいと思うのであれば、自分が救われた痕跡を差し出しても意味がない。それをどう加工すれば他の人に届けることができて、そして救うことができるのか。今後もそんなことを考えながら文章を書いていきたいなと思いました。

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